ジャニーズ、志村、募金ラン。コロナ禍でも感動ポルノを貫いた「24時間テレビ」の快楽至上主義
“君の瞳に乾杯”、ではなく“君の瞳に映る「私」に乾杯”するのが感動ポルノ
■ランと募金。ベクトルが違う2つを「感動」という言葉で紐づけて娯楽化
それはさておき、今回はむしろ感動ポルノをやりやすかったのではないか。世の中ではおそらく、病気で亡くなった人や病気を克服した人の泣ける話がいつも以上に求められているからだ。
逆に、やりにくかったのがマラソン企画だろう。コロナ禍にもそぐわない。しかし、番組は意外な方向性を打ち出してきた。高橋尚子の発案だという「募金ラン」だ。
これは、ランナーが走った距離の分だけ自分で募金するというもの。走らずに募金したほうが手っ取り早い気もするが、発案者や賛同者にとってはそうではないらしい。参加したひとり、土屋太鳳はインスタでこんな「意義」を語った。
「日本にはチャリティー活動がまだあんまり根付いてないと聞くことがありますが(略)寄付や援助だけだと『する側』と『される側』という、2つの立場しか生まないかもしれない。そうなったら結局『限られた世界でのやりとり』になってしまって問題が広く認識されない」
ありていにいえば、募金はよいことなので広めたい、そのために走るということだろう。個人的には募金など「限られた世界でのやりとり」で構わないと思うが、なんにせよ、この企画はこの番組の本質を浮き彫りにした。それは、慈善もまた人間の快楽にすぎず、そこをどう娯楽化するかで番組が成立しているということだ。
ちなみに、さまざまなドラッグを実践して「危ない薬」を著した青山正明はドラッグ並みの効果が得られるものに「良心の快楽」を挙げている。「募金」のように「一見、自己を犠牲にしてよいことをやっているよう」でも、それは「自分が気持ちいいからやっている」のだという真理を説いたわけだが、募金ランの高橋や土屋の場合、もともと走ることが好きで気持ちいい人たちだ。そういう意味で、これはお笑いビッグ3のゴルフや松方梅宮コンビの釣りを番組化するのと本質的に変わらない。にもかかわらず、善行をしていると自分で思い、周囲からもそう言われたりするのだから、たまらない快感だろう。
そんな募金ラン、ひいては「24時間テレビ」を熱心に見る人はけっして少なくはない。それは、別の快感が用意されているからでもある。自分より不幸な人たちの存在を知り、自分の幸せを確認する快感とでもいおうか。それゆえ、マラソンも走りたい人より、そうでもない人が走ったほうが盛り上がったりする。初代の間寛平や最近のみやぞん、ブルゾンちえみ、あるいは今回の高橋、土屋といった人たちより、徳光和夫やはるな愛のほうが「走らされている感」があって、サディスティックに楽しめるのである。
なので今回も、前出の山Pなり石田なり、あるいは東出昌大や渡部建といった人たちが「懺悔ラン」をやったほうが面白かった気がする。まぁ、そういうことは「ガキ使い」の「笑ってはいけない」シリーズ(日本テレビ系)の役目かもしれないが「24時間テレビ」がちょっとつらいのは、慈善を娯楽化することの後ろめたさがちらちら垣間見えることだ。それゆえ、ふざけること、ふざけて見られることを極度に恐れている。せめて、誰かのためではなく、自分が気持ちよくなるためにやっているという快楽至上主義的スタンスをもっとあらわにすれば、批判の声も鎮まるのではないか。
たとえば今回、高橋は「私の姿を見て元気になってもらえる人がいるといいなと思います」などと語った。が、20代のピチピチした女子が世界一を目指した走りとはワケが違う。あくまで自分が好きだから走る、自分が元気になれるから、のほうが押しつけがましくなくていい。
とにかく、芸能人は遊んでナンボだし、テレビも遊んでナンボ。それが、芸能的正しさだ。自己満足なチャリティーごっこで遊んでます、というノリでやってくれれば「24時間テレビ」も少しは暑苦しくなくなるのになぁ。
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